田岡嶺雲は、1870(明治3)年、土佐郡旭村石井(現・高知市赤石町)に生まれました。幼少時より自由民権運動の感化を受け、10歳の頃には政談演説会の演壇に立つなどしています。
帝国大学文科大学卒業後、同窓であった山縣五十雄の誘いで雑誌「青年文」を創刊、主筆となります。誌上では、社会評論のほか、文芸・作家評論などを展開。樋口一葉や泉鏡花の才能をいち早く認めました。
また、ジャーナリストとしても活躍。北清事変従軍の記録「戦袍余塵」や、官吏侮辱罪で下獄した時の体験記「下獄記」を著しました。
嶺雲は、鋭い視線で社会を見つめ、社会的・経済的な弱者の立場に立った論評を展開しました。著書や主宰雑誌が発禁に次ぐ発禁という不幸に見舞われながらも、筆を折ることなく、1912(大正元)年、日光の寓居で死去するまで作品を書き続けます。
病と闘いながら40年の生涯を回顧して執筆された『数奇伝』は、明治期における優れた病床文学・自伝文学となっており、海外研究者からも高い評価を得ています。
本コーナーでは、『壺中観』(裁断のあとがのこる)をはじめとする発禁本や『数奇伝』などの著書、「青年文」などの主宰雑誌や親交のあった三宅雪嶺からの書簡、自筆原稿などを展示しています。
今年生誕150年を迎える田岡嶺雲の、ジャーナリスト・文芸評論家などの多岐にわたる足跡を、ぜひご覧ください。