吾川郡弘岡下ノ村(現・高知市春野町)生まれ。子規門下であったが、子規没直後、「子規子の死」を発表、その子規批判の論考で排斥を受け俳壇から失脚。帝大卒後は郷里に帰り、俳誌「海月」を主宰するなど地方詩壇に復活し後進の指導に尽
【本について】 1965(昭和42)年10月に高知市民図書館より刊行。 【作品について】 この本は、若尾瀾水の主要な俳論や俳句などを収めた俳論集です。 特に、サブタイトルにもある正岡子規の死に関連して書かれた「子規子の死
【葉書表】 仙臺市道場小路 六番地桜井内 若尾庄吾殿 東京根岸 子規 【葉書裏】 見事なる大梨 ありかたく候 ザボンより大き な梨をもらひ けり 【解説】 この資料は、若尾瀾水が様々な有名人の筆墨を収集した